1950年

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1950年(昭和25年)は学習院輔仁会音楽部創立29年である。

演奏会

部報

学習院輔仁会音楽部部報」学習院輔仁会『輔仁会雑誌』172号、1950年(昭和25年)12月20日発行、 pp.70-76
大学の部 p.70

 大正十三年、當時の輔仁會編纂部より獨立、新發足した音樂部は、玆に廿五周年を迎えた。この間十年も續いた戰爭、そして敗戰という痛ましい現實に、半ば消滅の形を餘儀なくされていた當部は、漸く平和の光を浴びて立上がり茲に五年、今や文化部中、押しも押されぬ第一等の一を占むるに至つたのである。現在、部員八十餘名は最も活氣ある、しかも大規模なる活動を續けているのであるが、本年度の主なる部活動は次の如くである。

一、本年早春一月、先輩並びに關係諸氏により混聲合唱後援會が誕生してより、合唱團は直に大曲、ケルビーニの鎮魂曲の練習に入り、毎週二回(火・金)の定期練習を今日迄續けてきた。
二、三月廿三日、女子部高等科卒業生送別學藝會に特別出演を行つた。 ○未完成交響曲……(オーケストラ) ○パニス・アンジェリス……(コーラス) ○タンホイザー(大行進曲)……(コーラス)
三、五月廿日、當部廿五周年記念に備え、米人バリトン歌手サンダー氏其他の特別出演及び練習中のケルビーニ鎮魂曲の一部を以て、特別演奏會を開催した。
四、十一月五日、我々の最も努力し來り且、期待された廿五周年記念大演奏會を開催、之は全學習院の關心と期待せんを集めた輔仁會文化大會の行事を一駒として、又その白眉として、先ず管絃樂によるケルビーニの鎮魂曲等を、二時間餘に亘つて演奏した。

五、去る七月、元音楽部委員長鍋島直誠氏は病氣療養中亡くなられた。我々音樂部員一同は、何らかの形で追悼音樂會を催し、心より故人に弔意を表したい。本文の末尾ながら敢て記す次第である。(三井)

短期大学の部 p.74

 今迄の希望がかなつて、急に音樂部を作り得た事は誠に喜ばしい事である。しかしあまりにも急な事と文化祭からの要求上、まだ内容を明らかにも出來得ず且、部員もはつきりして居ない狀態であるが、部としての活動は十月初めより鹿野先生の御指導を仰ぎコーラスを行つている。(鱒、秋の夜、ホフマンの船歌等)まだ生まれたばかりの音樂部故、諸音樂愛好者の御協力を切望する。(野津記)

高等科(女子)の部 p.76

 種々の困難にぶつかりつゝも今年で音樂部二十五周年を迎え、ケルビーニのレクヰエム全曲を歌い終えた事は實に大きな喜びとする處である。現在女子部音樂部の活動は高等科の男子部との混聲コーラス及び中等科の女聲コーラスのみである。女聲コーラスは畑中先生がお見えにならなくなつて以來少し途絶えたが毛里先生御指導に依り再び復活し、今年三月の學藝會にはスモールコーラスとして立派に出場した。中等科は足立先生及び熱心な中等科の學生に依り週一回の單聲コーラスの練習が行われている。音樂會の記録はすべて男子部と合同で行はれた爲省略する。女子部としてはレコード及びケースを購入して鑑賞方面に力を注いだ事が記録としてあげられる。但しレコードコンサート迄持つていく力がなかつた事を非常に残念に思つている。最後に中等科が立派な部として存續する樣切望する次第である。(後藤記)